ドローンの先駆者「中村一徳」物語

ラジコンと空への憧れ

――小さなころからラジコンに触れていたんですか?

ええ、ラジコン歴は45年になります。幼少期から操縦しているので長いんですよ。誕生日が7月8日なので、この間でもう46年経ちました(笑)。当時はトイラジと呼ばれているおもちゃのラジコンをやっていました。やり過ぎて壊れちゃったこともありましたね。

本格的なラジコンとの出会いは、本屋でラジコン雑誌を読んだときです。『ラジコン技術』や『ラジコンマガジン』など、いろいろな雑誌がありました。雑誌を読んで、「おもちゃではなく、本物のラジコンが欲しい!」と思いました。それでお年玉を貯めて、当時10歳でしたが、本格的なラジコンを買いました。ラジコンは今でこそ電動が当たり前ですが、そのときはエンジンで動くものしかありませんでした。それで、なぜかいきなりすごく速いエンジンバギーを買いました。操縦は、周りでやっている友達もいなかったので、自分で勉強しました。自分で操縦して思い通りに動かす。動かしながらいろんな性能を引き出していく。一から自作して作る。こういうことが楽しくて、ハマっちゃいましたね(笑)

――それから青年となり、仕事で「気象衛星ひまわり」に携わることになるんですね

専門学校を卒業してから、富士通に入社し、「気象衛星ひまわり4号」の運用システムの開発に携わりました。ひまわりの運用は、けっこうたくさんの人が携わっているんですよ。衛星を制御する人もいれば、ロケット関連の人もいます。私はシステムエンジニアとして、ひまわりの雲画像を撮るところで働いていました。よくみなさんがニュースで見るあの画像です。そこでデータのやり取りや緊急事態のバックアップ処理などをやっていました。あと、沼津に工場があるんですが、そこはものすごく広くて、大型コンピュータがびっしり詰まっています。そのなかを一人ポツンと座って、「疑似宇宙」なんてものを作っていました。疑似宇宙っていうのは、宇宙で起こるあらゆることをシュミレーションできるものです。これによって、自分たちの作ったソフトウェアが宇宙空間でもきちんと動くかテストできます。テストせず、衛星を打ち上げてからトラブルが発生したら大変ですからね。

――その職に就いたのは、小さい頃に空への憧れがあったからですか?

そうですね。すごく空には憧れがありました。恥ずかしい話なんですが、幼稚園のころに「月にロケットを飛ばしてやる!」と思ったことがありました。ロケットみたいなかたちをしたヤクルトの容器があるじゃないですか。この容器を4~5個つなぎ合わせて、ロケットにするんですよ。それで、容器の下をくり抜いて、アルミホイルを貼って燃えないようにする。それから、パンッて鳴るおもちゃのピストルがあるじゃないですか。それに使われる火薬を駄菓子屋さんで買ってきます。そして、何十個もの火薬をほぐして、容器のアルミホイルのところに積めます。これでロケットは完成です。そのロケットを、うちの横の大きな空き地に持っていって、ドラム缶の上に立てて、導火線に火をつける。びーーーーーっと火花が散りながら、「よし、発射!!」。その瞬間、「バン!!!」……と爆発、ロケットは粉々になりました(笑)。まあ、幼稚園のときですからね。今そんなことをしたら、怒られちゃいますけども。

独立し、趣味を仕事に

――それから月日が流れて、2000年に「フリークスカフェ」というお店を開くわけですね

そう、私が30代のときですね。今の「フリークスガレージ」の前進となるお店です。実はこのお店、日本のダーツバーの先駆けとして、いち早く「ダーツマシン」を導入ました。まだ日本にダーツマシンなんてなかったころの話です。さらに、大きなダーツ大会を「東京ビッグサイト」を借り切ってやりました。当時のダーツブームを作ったといっても過言ではありません。お店では、そうしたイベントからラジコンサーキット、飲食など、とにかく人が集まっていろいろ楽しいことをやっていました。

2007年ごろになると、お店を東京の田端に移し、ミニッツ(小型のラジコンカー)の大きなサーキットをやっていました。京商という老舗のラジコンメーカーの専用サーキットです。

それから、私のラジコンのヘリコプターの操縦技術を高く評価していただき、ヒロボー株式会社のサービスステーションをさせていただくことになりました。ヒロボーは、無線ヘリ製造で世界トップクラス、国内シェア1位の会社です。サービスステーションというのは、ヘリコプターの故障やメンテナンスなどを受け付けるところです。このころ、ヒロボーが入門者向けのヘリを開発しました。もう、ヘリをやりたい人のほとんどが買ったといってもいいくらい売れていました。ただ、室内で飛ばせるフライトエリアが都内にはありませんでした。そこでヒロボーからサービスステーションのお誘いを受けたのです。これを機に、もともとラジコンは得意でしたが、ヘリの操縦を猛練習し、インストラクターとしても活動を始めました。サービスステーションは、他にも日本遠隔制御株式会社(JR)でもやらせていただきました。

一部上場企業に認められたフリーク(変人)

このとき屋号を今の「Freaks Garage(フリークスガレージ)」に変えました。フリークスとは、変わり者たちということです。変わり者がやっている。変わり者が集まるところ。そんな意味ですね。この名称には由来があります。昔の映画で『イージーライダー』というピーター・フォンダ主演のものがあります。この映画のなかでヒッピーが出てくるんですが、それが「フリーク」と呼ばれていたんです。それを観て、「あれ? 俺のこと言ってる?」と思っちゃった(笑)「変わり者」と言われると自分は嬉しくてね。「そうです。私が変わり者です(笑)」みたいな。それで、フリークを複数形にして、「フリークスガレージ」として使い始めました。変わりもんが集まるガレージって意味ですね。

――2009年ごろ、お店が、一部上場企業の「東京テアトル株式会社」の目に留まったとのことですが?

そうですね。テアトルさんは、映画館の運営や不動産などを手がけている会社です。当時はショッピングモール経営などもやっていました。そのテアトルの方が、「面白い人がいる」みたいな噂を聞いたらしく、私のもとにやってきました。それで「一店舗空いているところがあるから、中村さんのやりたいことをやりませんか?」と言ってくれて。一度、店舗を見に行ったんですよ。千葉の稲毛にありました。500坪の店で、店内にエスカレーターまでついている。びっくりして、最初は「ムリムリ!」と断っていたんです。田端の店は50坪。稲毛の店は500坪ですよ(笑)。めちゃくちゃ広くてビビっちゃいました。ところが、最後はテアトルの部長さんまで出てきて、「ぜひやってくれて!」と言われて……。その熱意に押されて、やらせてもらうことになりました。本当にありがたいお話でしたね。

ドローンの機体を開発・普及

――このころ「ドローン」を開発していたんですか?

ええ、もともとラジコンのヘリコプターをやりながら、今ドローンと呼ばれている機体の開発もしていたんです。「ヘリは操縦が難しい。でも、ローター(羽)を4枚にして機械制御にしたら簡単に飛ばせるんじゃないか」。そういう考えのもと、仲間と一緒に作っていました。そして、大手企業が製品化しました。

その機体を、私たちは「マルチコプター」と呼んでいました。その後、マルチコプターという言葉が一般に広まっていきました。今はありませんが、かつて『マルチコプター』というタイトルの雑誌もありました。

「マルチコプター」を飛ばせるフライトエリアを稲毛の500坪の店に作り、みんなで飛ばしていました。そのとき、お客さんからこんな問い合わせがありました。「そちらのお店に、自分の“ドローン
”を持ち込んでもいいですか?」と。当時は、まだドローンなんて日本では誰も使っていない言葉です。私も知りませんでした。そこで、「ドローンって何ですか?」と聞きました。いろいろ話をするうちに、どうやら自分たちが作っている「マルチコプター」のことを、海外では「ドローン」と呼んでいることが分かりました。そのお客さんの機体は海外製品だったのです。

ほどなくして、だんだんとドローンという言葉が一般に広がっていきました。雑誌『マルチコプター』も、タイトルが『ドローン&マルチコプター』に変わりました(笑)。私たちに言わせれば、どちらも同じなんですけどね。「ドローン」=「マルチコプター」です。ドローンの意味は、「無人航空機(UAV)」のことですから。ただし、ドローンは兵器という意味合いもあります。知らない人と話す場合を除いて、私はあまり使いません。マルチコプターとは、一般的によく見るドローンの機体の固有名詞のことです。

今では、ドローンという言葉だけが一般に広まっています。雑誌名も、マルチコプターが消えて『ドローン』だけになりました。雑誌やテレビニュースなどのメディアで「ドローン」と呼ぶようになり、一気にその名称が広がっていきました。私たちが考えたマルチコプターという名称がどんどん変わっていく。その流れの中にいるのは、なんだか複雑な気持ちですね(笑)。

誰よりも早くドローンの時代を察知

――マルチコプターの飛行に力を入れ始めたのもこのころ?

はい、2009~2010年の時点で、今後は「UAVの時代が来る」と私は強く感じていましたので、マルチコプターを飛ばすことにも力を入れ始めました。マルチコプターは、飛ばしていて面白くはありませんが、「これを仕事に使ったら面白いのでは?」と考えました。そのきっかけを与えてくれたのは、マルチコプターの制御装置を作っていた、私よりもベテランのパイロットです。その人が、「マルチコプターっていろいろ使えるんじゃない?」と言ってくれて。そのときはまだ、「う~ん、どうかなぁ」と思っていました。しかし、よく考えたら実用性があるなと。どれくらい実用的かは、今のドローンを使った仕事が示す通りです。このころから今みたいになると考えていました。

――2011年になると、3.11の地震で500坪のお店が被災されたんですか……

そうですね。人生うまくはいかないもので、「さあ、これからもっとお店を盛り上げていこう!」と思っていた矢先、3月11日の東日本大震災で、千葉の稲毛の店も被災しました。壁にヒビが入ったり、サーキットコースが波打ってしまったり……。しばらくは営業していましたが、1年間かけて建物が傾いていったので、いよいよダメだと思い、その店での活動は断念しました。

それで、一旦東京に戻り、そこでお店を再開することにしました。最初は、ヘリコプターのクリニックをやりました。ヘリの機体の調整や修理です。当時は、そういうことができる人も少なかったので、全国からお客さまが来ました。お客さまのなかには、「マルチコプターを調整してほしい」という人もいました。ちょうどそれくらいの時期から、マルチコプターの機体を一般の人も買い始めていたからです。マルチコプターのことは、開発に携わっていただけに全部分かるので、快く引き受けていました。

日本でいち早く
ドローンスクールを開校

――このあたりで、日本初かもしれないドローンスクールを開いたのですね?

そう、2012年ごろには、マルチコプターのスクールも始めていました。ヘリのスクールはいくつかありましたが、私の知る限り、当時はマルチコプターのスクールはありませんでした。だから、もしかしたら私が初めてドローンスクールを開いたのかもしれません。

当時ドローンスクールは、体育館を借りてやっていました。そのころはまだ航空法がなかったとはいえ、都内だと飛ばせるところは限られていましたので。ただ、体育館だけで飛ばしていても練習にはなりません。それで、ちゃんと飛ばせるところがないとダメだなと。たまに土手で飛ばしたりもしていましたが、やはり広い練習場所の必要性を痛感していました。

それで2014年ごろには、マルチコプターを飛ばせる広い場所はないかと、全国を探し回っていました。稲毛の500坪の店みたいなところでまたやりたいなと思っていて。それで東北に行く予定とかも立てたりして。

ところが結局、埼玉県の秩父に行くことになりました。たまたまパートナーと、温泉でも入りに行こうって話になったんです。「ああ、50年生きてきて秩父はまだ行ったことがなかったな」って。それで、秩父のある旅館に泊まったんです。そこの女将さんにこれまでのことを話したら、「じゃあ秩父にいらっしゃいよ~」なんて言ってくれて。「それもいいかなぁ」と思って、秩父に引っ越すことになりました。

いち早くドローンによる自然災害や
測量での活用方法を広める

――秩父に来てからはどんな活動を?

ドローンに関する活動を積極的に行いました。まずは、それまでやっていたヘリクリニックとドローンの教習所を開きました。それから、さまざまなヘリメーカーと組んで、「一般社団法人NABUC」という組織も作ったりしました。

秩父での活動の一例としては、2016年に、秩父中の消防や警察関係、埼玉県の防災課、国会議員の秘書など40名ほどを招いて、日本でいち早くUAV(無人航空機=ドローン)を使った災害対策デモンストレーションをやったことがあります。趣旨は、山火事のときに、火元をUAVで見つけられるようにすることです。最初に山火事を想定して、山のどこかにスモークマシン(煙を起こす機械)を置いて、煙を起こします。この煙を、私がマルチコプターを操縦して、上空から見つけます。煙がどこから上がっているか、私は知らされていません。それでも、見事に上空から見つけられました。大勢の前での実演でしたが、うまくいきました。

他にも、これからはUAVを使った測量が主流になるという考えのもと、秩父中の測量会社を集めたセミナーを開きました。13社22名の参加という大きな会となりました。こうした活動は、当時としては最先端でした。これも、もしかしたら日本で初めてだったかもしれません。

それから、UAVの講習にも力を入れ始めました。秩父の大滝では、国交省を中心に国が管轄する「独立行政法人 水資源機構」の職員さん向けに、UAVの基礎講習をやりました。また、水資源機構さんの契約パイロットとして、ダムのあらゆる映像をマルチコプターで撮りました。観光用のPVやダムカード用の写真などですね。ダムの映像は公開の許可をもらっていますので、機会があればお見せします。他にも、「日本キャタピラー」という重機会社でも、職員さん向けにUAVの講習をさせてもらいました。パイロットを何名も養成しました。また、重機の新製品のCMやPV用の動画撮影も担当させてもらいました。こちらも映像の公開許可をもらっていますので、そのうちお見せできるはずです。

ドローンを広めてきた実績が
大手企業や自治体に認められる

――着実に実績を積まれてきたんですね

おかげさまで。そのかいあってか2017年2月ごろには、「ビックカメラ」さんより提案をいただき、当社のドローンスクールを代理販売していただくことになりました。もともと、私が展示会で出店しているときにビックカメラさんがいらしたんですね。そのときはお話だけしました。その後、すぐまた連絡をいただいて、私の講習をビックカメラで扱いたいとおっしゃっていただいて。今では、都内の池袋店やカメラ館本店、新宿西口店、ビックロなど、都内の多くのビックカメラで販売してもらっています。また、通販のほうでも販売されているので、そちらからも申し込みが来ます。

それから2017年7月に、秩父郡横瀬町が取り組む「よこらぼ」という事業で、私のUAV(無人航空機=ドローン)事業が採択されました。「よこらぼ」というのは、横瀬町と一般企業が協力し合いながら、町民のためになる活動をするというものです。私は町民の方々に、ドローンを飛ばす楽しさをお伝えさせてもらっています。例えば、以前、年配の方向けのドローン体験をやったことがあります。1日目は座学とシュミレーターを、2日目は実機の飛行体験をします。みなさん、本当に楽しそうでした。20名定員のところ、告知してからあっという間に埋まりました。80歳を超える方も2名いました。「来年もぜひ開いてほしい!」という声も多く、みんなドローンに興味があるんだなと実感しました。

2019年には、千葉に本拠地がある「一般社団法人 千葉房総技能センター」の理事に就任しました。ここは、建設関係の会社が集まって作った会社で、私はUAV講習関係の顧問として携わっています。ここでは、活動の一つとして、未来のUAVプロパイロット育成のために、学生を集めて就職セミナーを開催したことがあります。UAVが仕事でどう使われているのかや未来の可能性などをお話しました。若い子たちが目をキラキラさせながら聞いていました。

ドローン(UAV)の未来を担う
プロパイロットを育成

――最後になりますが、今後の展望をお聞かせいただけますか?

未来のUAV(無人航空機=ドローン)の可能性を育んでいきたいですよね。私は、日本ではまだほとんどの人が知らなかったころから、マルチコプターに携わってきました。マルチコプターに関して、先頭を走ってきた自負があります。そこで、より役立つ機体の開発やプロパイロットの育成、私自身のさらなる活躍など、まだまだ幅広くやっていきたいと考えています。

私は、今も新しい機体の開発をしています。この間は、まだ実験段階ですが、5~10キロの機材を山の上に運ぶための機体を作りました。その機体は、直径1.6m近くあり、8枚のローター(羽)が付いた大型機です。それを横瀬町のグラウンドで飛行テストをさせてもらいながら、楽しく遊んでいます(笑)。他にも、スズメバチを撃退するためのマルチコプターも設計しています。いろいろとご要望があるので、それに応えられる機体づくりに励んでいます。

そして、より多くの本物のプロパイロットも育成していきたいですね。日本はプロパイロットが30万人不足している、なんて言われています。やはり安全・正確に飛ばせて、仕事をきっちり遂行できるパイロットは少ないです。だからこそ、そういうパイロットが増えれば、マルチコプターが日本の社会の中でどれだけ役に立つかも、一般の人たちに浸透していくはずです。

また、私自身UAVのプロパイロットなので、まだまだ現場の最前線で活躍していきたいですね。ただ、先日56歳の誕生日を迎えましたので、今後、何歳まで飛ばせるか分かりませんが……。それでも、例えば大雨とか台風とか、災害が起こった後は私に出動要請がかかるので、ご依頼がある限り対応していきたいとは思っています。そのために、毎日のUAVの操縦練習は欠かせません。今日も練習しすぎで腕がダルいくらいです。まだまだ現役。若い人には負けませんよ(笑)。